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オリジナルBL小説をお披露目しちゃいます

ムーンライトダンス ④

    第四章

 翌朝、病院へ行くつもりで辰哉よりも先に部屋を出たオレだが、診察の結果を──それも最悪の──告げられるのが恐くて、けっきょく取り止めにしてしまった。
 ならばせめて、病状について詳しい情報を得ようと思ったけれど、手持ちの通信手段はケータイのみ。それも学割の特約を使った一番安価な契約でギガ放題とかもなく、辰哉のパソコンを拝借してネット検索をしているという状況では無理だ。
 けっきょく無料で調べられる図書館に足を運んで『家庭の医学』と書かれた、ぶ厚い蔵書やら医学書の類を棚から取り出し、パラパラとページをめくる。
 オレが感じていた症状から考えられる病名は急性胃炎、胃潰瘍に十二指腸潰瘍、肝硬変、そして胃ガン……
『急性胃炎の場合、酒の飲み過ぎなどのあと一時的に血を吐くことがあります。しばらく酒をやめて安静にし……』
『大量の出血があったからといって、大きい潰瘍があるわけではありませんが、それに応じた手当が必要です』
『患部に異常があるのは確かなので、一刻も早く診察を受けてください。反対に、何も自覚症状のないまま病気が進行する場合もあるので、注意してください』
 悪いのか大したことないのか、いったいどっちだよと毒づいてみる。
 今朝は調子も悪くないし、これは急性胃炎程度なのかもと、自分に都合のいいように解釈したオレは再び病院に向かうこともなく、そのまま次の講義に出席した。
 終了後、探していたと辰哉が駆け寄ってきた。
「時間、空いてる? だったら、今日は課題の作業をやめて、マシェリの作品を展示している画廊へ絵を見に行こうと思って。せっかくだし、写真じゃなくて本物を見てもらいたいんだ」
 何かとお疲れのオレに気晴らしをさせてねぎらおうと考えているらしい。
 それが気晴らしになるのかどうかは別にして、いつもオレのことを気遣ってくれるあたり、本当に人柄のいい、優しいヤツだとわかってはいるんだけど……
「画廊ねぇ。いいけどさ、彫刻学科の人間と一緒に行くより、絵画専門のヤツの方が話通じて楽しいんじゃないのか」
 お誘いが嬉しいくせに、気持ちとは反対のことを言ってしまうアマノジャクなヤツ。
何とまあ、お粗末な対応だ。こんな返事じゃ、行きたくないから渋っていると思われるじゃないか。
 すると軽くかぶりを振った辰哉は「あの絵を一番わかってくれる人と行きたいから」と答えた。
「ふ、ふーん。しゃーねーな、つき合ってやるよ」
 こうして大学の正門を出たオレたちは一路、シキト・マシェリの作品があるという画廊を目指した。
 美術館と呼ばれるところはたいてい薄暗くてシーンとしていて厳かな、悪く言えば暗い雰囲気だが、ここは店とあっていくらか趣が違っていた。
 控えめな白を基調にしたインテリアの中にアクセントとなる赤い椅子、柔らかな間接照明と静かに流れるクラッシック。
 微かに花の香りがする、芸術的で上品な癒しの空間とくれば、ゆったりとした気分になるはずなのに、オレときたら根っからの貧乏性なんだろうな、却って落ち着かずに辺りをキョロキョロしてしまう。
 店内にはオーナーらしい、品のいい中年女性と、いかにも金持ちっぽい年配の夫婦が客としているだけ。たわいのない話も高級に聞こえてくるから不思議だ。
 目立ってなんぼの、安物の服で固めたコーディネートのオレは──コバルトブルーの、光沢がある素材に銀色の模様が入ったTシャツと、よれよれのジーンズに真っ赤なスニーカー──この雰囲気から完全カンペキに浮いていた。
 さてしばらくの間、二人並んで眺めた辰哉のお目当て、マシェリの『海の溜め息』はさすがに素晴らしかった。チラシの写真よりも何倍もいい、実物なんだから当然だよな。
「やっぱ写真だと、印刷のインクで色合いが変わっちまうのかな。本物の方がずっといい色だな」
 黙って頷いた辰哉はオレが他の絵の前に移っても、腕組みをしてそこからじっと動かない。
 十分以上そのままで、たまりかねて「おい」と呼びかけると、ようやくこちらに顔を向けた。
「ああ、ごめん」
「あのさー、そんなに気に入ってるならジイさんに買ってもらえばいいじゃねえか。そうだ、寮の見張りはバイトみたいなもんだから賃金払えって、掛け合うとかすればどうだ? そうすりゃ部屋に飾って、いつでも眺められるんだし」
 生活費は多めにやるから、バイトなどはするなというのが理事長からのお達しだと聞いている。
 オレの提案を受けた辰哉は「いや、それは」と首を横に振った。
「何だよ、遠慮してんのか。寮に閉じ込められてんだから、そのぐらいのワガママ言ったってバチは当たんねーだろ」
「そうじゃないんだ」
 就職したら、自分の手で稼いだ給料で買いたいという辰哉の考えを聞いたオレは呆れ返った。
「就職って、あと三年も先だろ。それにおまえには理事長の椅子が待ってる……」
「父が理事長に就任したら、元気なうちはずっと続けるだろうから、オレの出番はかなり先だ」
「そりゃそうだけど、ここは美術館じゃない、絵を売る店だろーが。誰かに買われちまったらどうすんだよ」
「もしも売れてしまったら、それはそれで仕方ない」
「あきらめがいいんだか悪いんだか」
 嘆息するオレを見て、店のオーナーが同情するように苦笑いをした。いつも絵を見にやって来る大学生の存在を承知しているって感じだった。
 画廊を出たあと、辰哉は夕食をご馳走すると言い出した。絵のモデルと、自分の趣味につき合わせた御礼のつもりらしい。
「そ、そんなの、いいよ。その金貯めといて絵を買えよ」
 オレはとりあえず辞退した。いくらセレブとはいえ、ぬけぬけと奢ってもらうのは気が引けたし、吐血して以来、食欲不振にも陥っていたからだ。
「この近くにいいレストランがあるんだ」
 辰哉はなおも食い下がった。
 何がなんでもそこへ連れて行きたいようだが、まるでデートコースを下調べした男が自分の努力をアピールしているみたい……って、これってデートなのかよ? 
 芸術鑑賞のあとは一緒に食事でも……やっぱデートだ。
「いいレストランって、そーゆー店は値段も高いんだろ?」
「去年か一昨年だったかな、前に家族で行ったところだから、値段のことまではわからないけれど」
 ほれみろ、これだからスーパーおぼっちゃまは困る。
 するとヤツはオレを探るように見た。
「バイト辞めたんだろ?」
「えっ?」
「罪滅ぼしだと思ってくれ」
 オレの具合が悪いのは栄養失調に陥っているから。
 栄養失調になったのは収入の低下で満足な食事ができないから。
 収入が低下したのはモデルを引き受けたせいで時間がとれず、バイトをひとつ辞める羽目になったから。
 そんなふうに連想を続けた辰哉が出した結論は「夕食を奢って、少しでも栄養をつけてもらおう」だった。
「だから具合なんか悪くないって」
「無理しなくてもいい。おまえのプライドを傷つけるような真似はしたくなかったけれど、これ以上放ってはおけないんだ」
 辰哉のヤツ、オレの不調はあくまでも栄養失調だと思い込んでいるようだ。
 しかし、金持ちの貧乏人に対する施しと思われたくないので、食事に誘うような行為は控えていた、そんなところだろう。
「さあ、行こう」
「お、おい、放せって!」
 この腕を引きずるようにして、辰哉はお勧めの店とやらに向かった。
 思っていたより強引なヤツだ、けっこう行動力もあるじゃねーかと半ば呆れる。
 粋な、洒落た、洗練された、などといった形容詞で語られているだろう、黒を基調としたスタイリッシュな空間のダイニングレストランはいかにもデートです、といった感じのカップルでいっぱいだった。あとは女数人のグループで、男同士で来ているヤツなんていやしない。
「さっきの画廊もそうだけど、このテの店なんかは普通、女連れで来るもんじゃねえのか。ほら、みんなカップルだぜ。オレみたいな男を御供にしたって、しょうがね……」
「彼女ナシの同類、仲良くしようぜ、だろ」
 先の自分のセリフで切り返されて、オレは口をつぐんだ。
 軽やかに流れるモダンジャズ、頭上にきらびやかに灯るシャンデリア、白いクロスのかかったテーブルの上に赤いバラを挿したグラスと、銀色の燭台に乗ったキャンドルはいかにもな演出だ。
 こんなにもゴージャスな雰囲気を味わえるなんて、まるでどこかの国の王族にでもなった気分ってのはオーバーだけど、こーゆー店に連れてこられたら、アホな女はそれだけで口説き落とされてしまうんじゃねーか。
 いや、辰哉がオレを口説くってんじゃないけれど……って、おーい、何血迷ってんだ、オレは。ああもう、つまんないこと考えすぎだっての。
 そんな調子で、向かい合わせで席に着いたはいいが落ち着くはずもなく、メニューを見ている辰哉を睨むようにすると、ヤツは「何注文するか決まった?」などと、平然と言ってのけた。
「何って……」
「このページの、シェフお勧めのコースってのはどうかな?」
 コ、コースだと? うわっ、品数に比例して金額も高いじゃねーか。
 やっぱりウルトラおぼっちゃまだ、子供の頃から身につけた金銭感覚の差はなかなか埋められるもんじゃない。
 オレが無言でいるのは承知したからだと解釈したのか、辰哉はボーイを呼んでお勧めコースを二つ注文し、食前酒としてスパークリングワインも頼んだ。
 すぐに淡いゴールドの、トパーズを溶かしたようなグラスが、続けて赤や緑、黄色といった鮮やかな彩りに満ちたオードブルが運ばれてくる。
 トパーズ色の食前酒をあっという間に飲み干した辰哉はさらに、お酒大好きなオレのためにとワインを、それもグラスワインじゃ足りないだろうと、口当たりのいいロゼのボトルを入れた。
 なんだこいつ、酒はあんまり飲まないとか何とか言ってやがったくせに、けっこうイケる口じゃねえかよ。
 スープに続いてクルマエビのスパニッシュ風とか、牛フィレ肉の何とか添えとか、舌を噛みそうな名前の料理の皿が次々に運ばれてくると、目の前に広がる豪華な光景につい、ナイフとフォークを突き出す。
 己の胃ガン疑惑を忘れてデザートまでたいらげたオレ、食欲不振はどこかに吹っ飛んでしまった。なんてゲンキンなヤツ。
 美味い料理に美味い酒。正直言って、こんな高級料理を食べたのは久しぶりだった。割引の弁当が御馳走だったオレの胃袋がびっくりしているのがわかった。
 おまけに、かなり酔いが回っている。しばらく酒を控えていたせいもあるけど、アルコールには強い方だと自負していたこのオレがここまでひどく酔ってしまうとは思ってもみなかった。
 酔えばますますおしゃべりになる人もいれば、寡黙になる人もいる。今夜のオレは後者のパターンで、しかも相手は本来無口な男、せっかくオシャレな雰囲気の中にあっても、気の利いた話題が出てこずに、二人の会話は一向に弾まない。
 それにしても辰哉のヤツときたら、まったく酔っていないように見えるのが憎らしい。酒よりも甘味が好きなオバア男子だったんじゃねーのかよ。
 会話が盛り上がらないのを酒で紛らわせようとしているのは結構だが、さっきのワインだけじゃ物足りないのか、カンパリだのキールだのと注文しては「何か頼まなくてもいいの?」などと訊いてくる。
 おいおい、ここは食事を楽しむ店で飲み屋じゃない、いくら何でも飲み過ぎだって。
「やっぱりチューハイでないとダメだったのかな」
 だから、酒の種類がどうこうじゃなくって、オレの身体が受け付けないんだよ。もうギブアップ、これ以上飲めないっての。
 意識が朦朧としているうちに、ラストオーダーの時間になっていた。

    ◆    ◆    ◆

 正直、店を出た直後のことはまったくおぼえていない。
 ただひたすら駅を目指し、それでも無事に正門まで戻ったオレたちはおぼつかない足取りでキャンパスの中を進んだ。
 噴水の手前を横切って寮の方へと行こうとしたところ、辰哉がふいにその噴水の前で立ち止まった。
「昔ここで月下の舞踏会が行われていた」
 懐かしむように夜空を見上げるヤツの視線を追うと、黄色い満月がぽっかりと浮かんでいた。
「そういや、あの記念写真集に載ってたな。学園祭の催し物とか」
「ああ。写真を撮った頃は後夜祭のイベントという扱いになっていたらしいが……」
 噴水の縁まで進んだ辰哉は溢れる水を手で受ける仕草をした。
 滴が水面にシャワシャワと落ちる音だけが響き、黄色の丸い光が踊るように揺れる。今夜踊っているのはお月さんだけか。
「もともと学園祭とかは関係なくて、学生同士の交流を図るためのダンスパーティーとして創立当初から行われていたんだ」
「創立っていうと、五十年前か。カラオケも合コンもない当時の娯楽のひとつだったんだろーな」
「祖父が学生だった頃もパーティーは続いていて、その場で祖母にプロポーズした自慢話なんか、何度聞かされたかわからない」
「へえー。やるじゃん、理事長」
「家同士の格とか釣り合いにこだわった結婚が圧倒的に多い時代だから、祖父母のように自由な恋愛結婚をする人は少なくて、みんなの羨望の的になったとも言ってたな」
「ふーん」
「その後もカップルになる者が多くて、縁結びの行事として歓迎されたとか」
「まるでお見合いパーティーだな」
 月下の舞踏会とは、若き日の理事長が女子学生を見事にゲットした、その成功にあやかる行事だったわけだ。
「だから、キャンパスの移転後も受け継がれて学園祭行事になったらしい。ダンスなんてさすがに十年と続かなかったけど、女子寮があった頃は男子寮との交流会の一環として復活させたと聞いた」
「じゃあ、けっこう最近まで踊ってた連中がいたんだな。ご苦労なこった」
「そのとき踊りの手ほどきをしたのが祖父母で、祖母にとっては何十年かぶりに踊ったのがよっぽど嬉しかったらしい、噴水の前でどうのこうのと、よく話してくれた」
「甦る青春の日々ってやつか」
 夫に協力し、キャンパス移転にも尽力した宇都木バアちゃんにとって、プロポーズの想い出の再現となった噴水前が新たな想い出の場所となったわけだ。
 だから辰哉はあかつき荘だけでなく、バアちゃんの想いのすべてを守りたいと考え、ジイさんに従った、そういうことか。
「俺たちも踊ってみよう」
「へっ?」
 いきなりの提案に唖然とするオレの腕を取り、腰に手をまわす辰哉の身体から、最後に飲んだカクテルのものなのか、甘酸っぱい香りが漂う。
 辰哉は酔っているとは思えないほどしっかりした、尚且つ華麗なステップを踏み、月明かりの下、二つの影が一つになってゆっくりと揺れ出した。
 この男、家庭環境がアレなだけにダンスの心得もあるらしい。が──
「なっ、何でオレがおまえと踊らなきゃなんねーんだよ? しかも女役で」
 まあいいからと言って微笑み、手を放そうともしないあたり、アルコールの効用で性格が豹変するタイプとみた。しらふに見えても相当酔っていたんだろうな。
 ヨッパライの戯言とわかっていても腕を振り払うこともできず、そのままダンスパーティー状態に突入、二人だけの月下の舞踏会が始まった。
 月下の舞踏会──始まりは戦後とあって、さすがに古臭い呼び名だ、ムーンライトダンスって呼んだ方がオシャレかも。
 くるりくるりと舞うように踊る辰哉の動きに合わせてオレの身体も回る。当然、醒めかけていた酔いも回る。
 ピアノ、サックス、クラリネットにベース、さっきから聞こえるのは水滴の跳ねる音だけのはずなのに、いつしかオレの耳には華やかなダンスミュージックのナンバーが響いていた。
 これって飲み過ぎによる幻聴? 
 そんでもって、噴水があるだけの寂しい中庭はきらびやかな舞踏会会場に、辰哉は黒のタキシード姿でオレは……真っ赤なドレスぅ? ついに女装かぁっ? 
 ヤバイ、幻覚まで見えてきた。
 こりゃ重症だと焦るオレはつまんないネタを振った。
「おまえんちのジイさん、こんなふうにバアちゃんを酔わせて、ぐるぐる回してから『きゅーこん』したんじゃねーのか」
「そうかもしれないな」
「でもって、バアちゃん、酔ったはずみでオッケーしたりして」
「そいつは使える手だ」
 辰哉はオレの腰にまわしていた手にいきなり力を込め、自分の方に抱き寄せた。
「ちょっと何す……」
「好きなんだ」
「……はあ?」
「俺と結婚して欲しい」
「はあぁ?」
 こ、こいつめ、メチャメチャ調子に乗ってるじゃねーか。
 いにしえのプロポーズ大作戦をここまで再現しなくてもいいだろうに、いくら何でもやり過ぎだと思いながらも、胸の鼓動はドキドキと激しくなるばかり。
 酔いの高揚感も手伝ってか、すっかりフラフラになってしまったオレをじっと見つめる辰哉、えっ、目がマジだ。全然笑っていない。ってことは酔って……ない? 
「あ、あのさ」
 辰哉は戸惑いまくってるオレの両頬を掌で挟み込むようにした。
「愛している」
 甘く、囁くように告白したあと、唇が触れてきた。
 これがオレにとってのファーストキス。
 こんなにも柔らかくて温かい感触なんだ。
 鼓動は相変わらずドキドキしまくっているんだけど、ほわっと柔らかいものに包まれたようで、オレはとろんとした気分に浸ってしまった。
「ラムネ……」
「辰哉……」
 愛を囁き合う二人、みたいになっているオレたち、しかしだ、男が男にキスをされているだなんて、こんな異常事態をいつまでも放置しておくわけにはいかない。
 辰哉の暴走を止めなくてはと、オレは無理やり正気に戻った。
「……って、冗談も大概にしろよ! いくら親友だっていってもさ、やっていいことと悪いことがあるってーのっ!」
 やっとの思いで抗議したあと、ヤツの腕を振り払うと、
「ごめん……」
 オレの拒絶反応の凄まじさに傷ついたのか、それとも悪ふざけが過ぎたと反省しているのか、辰哉はすっかり落ち込み、しょんぼりしてしまった。
 ちょっと言い過ぎたかな。
 でも、落ち込む様子を見たところで、何と言ったらいいのか、どうリアクションすべきかもわからない。とりあえずこの場から逃げ出したい。
「帰んなきゃ。帰って寝る」
 背中を向け、再び寮を目指して歩き始めたオレのあとを辰哉が慌てて追ってきたが、かまわず突き進む。
 あかつき荘の前まで続く夜道に響くのは二人の足音だけで、辺りは薄気味悪いほどに静まり返っていた。
「……あれ?」
 玄関の前に黒い人影が立っているのが見えた。それが年配の男性だというのはすぐにわかったけど、こんな時間にいったい誰だろうと訝り、足が止まる。
 人影はこちらの姿を認めると、落ち着いた声で話しかけてきた。
「辰哉様、ようやくお帰りで」
「柿崎さん……」
 辰哉が困惑した様子で相手の名を呼んだ。柿崎と呼ばれたその男性は六十歳ぐらい、グレーのスーツをきっちりと着た学者ふうの容貌で、こりゃあ理事長の回し者だなと踏んだらその通り。宇都木家の、いわゆる執事とか秘書みたいな役割の人だった。
「何度か、お電話を差し上げたのですが」
「すいません。ケータイ、マナーモードにしていて気がつかなかった」
 駐車場に停められた黒塗りの高級車の中で、中年の運転手が待ちくたびれた顔をしているのが見える。
 オレたちが飲み食いしたり、踊ったりしている間、二人はここでずっと待っていたのかと思うと気の毒になった。
 申し訳なさそうに頭を下げる辰哉に、ミスター執事は「お祖父様が体調を崩されまして、早急にお帰りくださるよう、お迎えに参りました」と告げた。
「えっ?」
 オレたちは二人揃って声を上げた。
 体調を崩したって、要は入院していた理事長の具合が悪くなったってことだろ。そりゃあ大変、一大事だ。状況によっては寮だけでなく、大学の運営そのものにも影響が出るのではと不安にかられる。
「どんな様子ですか」
 辰哉が心配そうに訊いたが、はっきりとした答えを返さないまま、柿崎さんは車に乗るよう促し、それからオレに会釈をした。慌ててお辞儀を返す。
 緊急事態とあって帰らないわけにはいかず、辰哉はオレの方を気にしながらの「後ろ髪を引かれる」状態で、引きずられるように車に乗せられた。
 黒い車体はエンジン音を低く響かせながら発車し、辰哉とオレのショーゲキ的な一日はあっけない結末で幕を閉じた。
 赤いテールランプが見えなくなると、オレはまるで魂を抜かれたようにふらふらしながら寮の中に入り、部屋の鍵を開けたあとは力尽きて、その場にペタンと座り込んでしまった。
「……疲れた」
 画廊&レストランデートに月下の舞踏会の再現、執事の登場と共に、最後の最後に飛び込んできた、理事長の容態に関する情報──今日一日の、展開の目まぐるしさに体力を使い果たしたって感じだった。
 おまけに辰哉ときたら調子に乗って、こともあろうにジイさんのプロポーズを真似て、キスまでやってのけるなんて……
『好きなんだ』
『俺と結婚して欲しい』
『愛している』
 あいつが口にしたセリフの数々が耳に甦ってくる。
 ジイさんがそう言ってプロポーズしたのかどうかは知らないけど、何のひねりもなくて単純、ストレートな口説き文句だ。まさに直球、真っ向勝負って感じ。
 でも、決してオシャレじゃないけど心に響く言葉だ。キスの感触までもが唇に甦って胸の内が熱くなってきた。
 あれがプロポーズの真似事ではなく、本当の告白だったら嬉しいのに……
 えっ? 今何を考えていたんだ? 
 辰哉の本気の告白を望んでいるって、それってつまり、もしかしてオレはあいつが……好き? 
「でぃええええぇぇーっ!」
 とんでもない結論が出てきたせいで、危うく後ろにひっくり返りそうになる。
「なっなっ何で、そんな、だって、辰哉は男じゃねーかよっ」
 いけ好かないヤツだと思っていた相手が友達になった、親友ができて、めでたし、めでたし、それだけのはずなのに。
 あんなことされて、友情を愛情と勘違いしているんだ、冷静になれと諭してみるけど、簡単にはいかずに混乱が続く。
 オレってば、この齢で女にあんまり興味ないし、やっぱ本当はそっち系なのかな? などと、自身のゲイ疑惑を否定しきれなくなってきて焦る。
 いや、どれもそうじゃない。そこにいたのは他の誰でもなく、辰哉だったから──
 改めて自分の心と向き合い、見えてきたもの、それはずっと目を背けてきた、認めたくなかった気持ちだった。
──やっぱり好きなんだ。
 大事な収入源であるバイトを休んでまでモデルを務めたのも、画廊行きにつき合ったのも、ダンスの誘いに応じたのも、すべて辰哉が好きだから。
 彼女はいないと聞いてホッとしたのも、片想いの人がいると聞いてショックだったのも、ガン疑惑を知られたくないと思ったのも、すべて辰哉への想いから。
 真似事でも嬉しかった告白、冗談でも幸せを感じたキス。
 ずっと前から、もしかしたら入寮したあの日から、オレにとって辰哉は親友ではなく、友達以上の大切な存在になっていたのだと思い知らされた。
「……そんなのってアリかよっ? なんで男なんかを好きになっちまったんだ、どう考えたって理不尽じゃねーか!」
 オレは思わず大声で叫んでいた。声に出さなければ気が変になりそうだった。
 片想いの人がいるという辰哉が同性を恋愛の対象と見るはずはないし、それが親友だと思っていた相手なら、なおさら有り得ない。
 そんなアイツにオレの想いが届くなんて絶対無理、好きだなんて言えっこない。
 こんなにも辛くて報われない恋なんて、今すぐやめてしまいたい。
 なのに……
「小井出ラムネのバカヤロー、おたんこなす! この気持ち、いったいどうしてくれるんだよっ!」
 踏み込んではいけない場所に足を踏み入れてしまった、そんな自分が憐れに思えて、惨めでたまらなかった。
 激しい衝撃と耐え難い悲しみと、絶望感がオレを襲い、胸がこれまで以上に、いっそう強くしめつけられる。
「……うっ」
 切り裂くような痛み、その奥からまたしてもこみ上げてくる不快な感触に慌てて口を押さえたが、もう遅い。
 赤く染まった吐しゃ物が床の上に飛び散ったとたん、目眩がしてその場に倒れ込んだオレは意識を失ってしまった。
                                ……⑤に続く