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オリジナルBL小説をお披露目しちゃいます

ムーンライトダンス ③

    第三章

 窓から差し込む日差しが瞼を撫でて、すっかり寝坊していたオレは慌てて飛び起きた。まるでお決まりのギャグみたいだった。
 時計に目をやって愕然となる。もうすぐ昼メシ時じゃねえか。なんてこった、二限には間に合いっこない。
 宇都木はちゃんと起きたらしく、気配は消えていた。ちくしょー、ベッドがどうのこうのと気をまわすぐらいなら、起こしてくれればいいのに。仕方ない、三限から出よう。
 昨夜の酒と一緒に買い置きしておいたパンをかじっていると、胸の辺りがムカムカしてきたので食べるのをやめた。
 このオレが缶二本分のアルコールで二日酔いになるとも思えない。よっぽど体調が悪いのかな。
 それでも無理して校舎へと向かったはいいが、たどり着いた事務室の掲示板に「本日三限の西洋美術史は休講します」と張り紙がしてあって、そいつを見た瞬間にガックリと脱力してしまった。
「ちぇっ、何のために出てきたんだか」
 ダラリと両腕を垂らしたポーズをとるオレを見て、同じ一年の女どもがバカにしたようにクスクスと笑った。
 こいつらときたらオレをからかい、槍玉に挙げるのが楽しいらしく、何かにつけて小馬鹿にするけど、もうすっかり慣れっこになっている。
 不愉快な連中を視界から取り除くために、反対側に視線を移すと、宇都木がやって来るのが見えた。
 黒いTシャツの上に羽織ったカーキ色のワイシャツとモスグリーンのパンツ、茶系の革靴が憎らしいほど似合ってセンスがいい。もちろんどれも高級品で、オシャレなイケメンの手本みたいなヤツだ。
「よう。今朝はゆっくり寝かせてくれてありがとな」
 オレのイヤミは即、伝わったらしい。いくらかすまなそうな顔をすると「あんまりよく寝ていたから……」などと、ありがちな言い訳をかました。
「なんて友情に厚いんだ、恩にきるぜ」
 すると、オレたちの様子を見ていた女連中が一斉に抗議を始めた。
 高嶺の花を通り越して近寄りがたい御方、理事長のお孫様の会話の相手がこともあろうに出しゃばりで鼻つまみ者の小井出ラムネとは、と思ったに違いない。
「ちょっと、ラムネ。あんた、ちんちくりんのくせに、何なれなれしくしてんのよ」
「ちんちくりんって、これでも百六十六あるんだけど」
「百七十ないなら立派なチビ。宇都木くんに絡まないでよ、この身の程知らず」
「だから身長は関係ねーだろ」
「それだけじゃないわよ。もう、おバカが伝染しちゃう」
「バカってのは伝染するものかよ」
 などと噛みつくと、今度はゲラゲラと嘲笑う。とことんムカつくヤツらだ。
 ところが、血管がブチ切れそうになっているオレを庇うようにして、無口なはずの宇都木が口にした言葉に、その場のみんなが仰天した。
「悪いけど、俺たちの会話の邪魔はしないで欲しい」
 きっぱりと言い切る口調にぽかんとする女たち、もちろんオレも同様だが、そんな反応をもろともせずに、宇都木はさらなる追い討ちをかけた。
「小井出とはけっこう気が合うんだよ」
 えっ? あれって気が合う者同士の会話だったのかよ? 
「親友と呼んでもいい」
 しっ、親友ぅ? いつの間にそんな親しい間柄になったんだっけ? 
「えーっ、ウッソー」
「信じられなーい」
 などと不満げな反応をする女子大生たちだが、宇都木が本気で言っているとわかると、胡散臭そうな表情を向け、ぶつぶつ文句を言いながら立ち去った。
 そこでようやく我に返ったオレは「あのさー、誰が誰と親友だって?」と混ぜっ返し、すました顔を軽く睨んでやった。
「ルームメイトだから」
「へっ?」
「友達になれないような相手とは同じ部屋になりたくない。そういうわけで、親友だ」
 わかったような、わからないような理屈を並べ立てられて、戸惑いながらも胸の内に感動が湧き上がるのを覚える。
 オレってば、宇都木に親友だなんてクサいセリフを言われて感激しているのか? なんとまあ、おめでたいヤツ。
 そういえばこれまでの人生において、友達に「おまえとは親友だ」などと言われたおぼえはない。一言以上多くて、煙たがれていたせいだろうな。
 ま、そんなふうに親しくなったヤツはいなかったけど、別にかまわないと思っていた。
 一匹狼、おおいに結構。いつも仲間とつるんで、群れを成していないと生きていけない、弱っちいヤツらとは違う。そんなふうに自負していたけれど、親友の存在は悪くない。
 それからヤツは「三限は休講だっただろう」と訊いた。
「ああ。慌てて出てきて損した」
「四限は?」
「なし」
「バイトは?」
 一瞬、言葉に詰まる。
「……今日はなし」
「ちょうど良かった。頼みたいことがあるんだ、お昼のあとでいいから」
「頼みって?」
「授業で出された人物画の課題があるんだけど、そのモデルになって欲しいんだ」
 絵のモデルだと? 
 宇都木の唐突な申し出に戸惑ったオレは思わず口走った。
「な、何でオレなんかを描きたいんだよ、キレイなおねーちゃんを描きたいってんならわかるけどさ」
「……」
「そもそも、おまえに声をかけられて、モデルを断る女なんていないはずだぜ」
「……」
 何も答えずに微笑む宇都木の態度に、戸惑いを通り越して困惑する。
 しかもなぜか某世界の巨匠の、名作の数々が脳裏に浮かんでしまい、
「本当に人物画の課題? じつは抽象画で、だからオレをモデルにって思ったんじゃねえの? 出来上がったら顔の半分が黄色で、半分が赤で塗られていたとか、頭から手や足が生えてるとか、背中に太陽と月しょってるとか……」
「心配しなくてもちゃんと描くよ」
 昼食後に寮へ戻って、例の共用アトリエで作業するつもりだと言ったあと、宇都木はオレの顔を探るように見た。
「やっぱり迷惑かな?」
「いや、そーゆーことはない……けど」
 なんで「バイトはなし」なんて答えちまったんだろう。今日もてんこ盛りで予定が入っているのに。
 いくら親友宣言してくれた相手とはいえ、貴重なバイト収入を犠牲にしてまで、モデルを務める義務なんてない。他にあたる相手はいくらでもいるはずじゃないか。
 そう考えるのが自然だろうに、こいつと一緒にアトリエへ行く方を選択しようとしている自分に気づいて、オレはまたもや混乱してしまった。
 宇都木と一緒に行きたい、少しでも長く傍にいたい。
 そんなふうに思える、この気持ちはいったい何だと自分に問いかけるけど、焦りが募るばかりで答なんて出やしない。
「あ、あのさぁ」
「どうかした?」
「んっ……と」
 一瞬言いよどんだあと、やっぱりこれはハッキリさせといた方がいいだろうと思ったことを切り出してみた。
「おまえ、もしかして彼女いないの? いればそっちにモデル頼むだろ」
「彼女……?」
 そのとたん、せっかく明るくなりかけていた宇都木の表情が寂しげな様子に逆戻りしてしまった。
 やべっ、マズイこと訊いたかな? 
「彼女か。そういう人は……いない」
 そうか、こいつは彼女どころか友達も少なくて、教室の隅でじっとしたり、寮にひきこもったりしている、わびしい学生生活を送っていたんだった。
 ここまで親しくなったのはオレが初めてで、それで親友なんて発言したのかと納得していると、二人の会話は思いがけない方向へと向かった。
「彼女はいないけど、片想いの人ならいる」
 一瞬、胸がチクリと痛む。
「ふ、ふーん。いるんだ、そういう人」
 こいつに片想いの相手がいたとは予想していなかったけど、年頃なんだし、いない方がおかしいよな。
 ちなみにオレにはいないけど。ムカつくことばかり言ってくるウザい生き物なんて、クソくらえだ。
「同じクラスの子?」
「いや」
「何なら取り持ってやろうか? おまえってば、オレの次に色男だし、オッケーしてもらえると思うぜ」
 心にもないセリフを口にすると、宇都木はなぜかこちらをじっと見つめ、それからゆっくりと首を横に振った。
「そ、そーか。そうだよな、オレの口ききじゃダメだってバレてるもんな」
 さっきの女たちの対応で、オレの女性間における不人気は一目瞭然、恋の橋渡しを頼むヤツなんているわけない。
「ま、彼女ナシはオレも同じだからさ。二人は同類、仲良くしようぜ」
 みんなとの交流が苦手な暗い性格の上に、理事長絡みの遠慮から親しく交われない立場だからこそ、宇都木は友達ができた喜びを絵に表したいと願っているのかも。
 だからオレもヤツの願いに応えるべきなんだ。バイトのひとつやふたつサボッたとしても、親友のためにひと肌脱ぐ。これぞ友情の証じゃないか。
 そう、それは友情の証──いや、そうじゃなくて──いやいや、これはやっぱり友情だよな、うん。
 無理やりオチをつけ、自分を納得させたオレの承知の返事を聞くと、宇都木は安心したように歩き始めた。
「なあ、その課題の絵って、タイトルつけるのか?」
「ああ。オリジナリティにあふれたタイトルを期待しているって教授が言ってたけど」
「いっそ『俺のマブダチ』はどうだ?」
「『マブダチ』か。いいかもしれないな」
「おいおい死語だぜ、死語。ギャグに決まってるだろ、マジにとるなよ」
 わかってるよと微笑みかける、オレにとって初めての〝親友〟。
 そんな笑顔が痛いほど眩しくて、とうとう目を逸らしてしまった。

    ◆    ◆    ◆

 カーテンすらかかっていない窓にフローリングの床が広々と広がる、殺風景この上ない元管理人室は寮生たちが持ち込んだカンバスやら絵の具、粘土の塊などがごたごたと置かれ、足の踏み場もなかったが、今は他に誰もおらず静まり返っていた。
「ここらを片づけるから、ちょっと待ってて欲しいんだけど……」
「しょーがねーな、手伝ってやるよ」
 カンバスとパイプ椅子を置くスペースを作り出すと、宇都木の注文に応じてポーズをとる。脚を組んで顎に手を当てた、オーギュスト・ロダンの名作『考える人』のようなポーズだ……って、脚は組んでいなかったような……ちょっと、いや、かなり違うか。
まあ、何でもいいや、なんて、とても彫刻学科の学生の言葉とは思えない。不勉強を反省する。
 下書きを始めた宇都木の真剣な眼差しを受けると、程よい緊張感で身がひきしまる。イイ男に見つめられるってのは自尊心をくすぐられて、なかなか気分がいい。
 優しい日の光、まどろみを誘う温もりの中にあっても眠くはならなかったが、しばらくするとさすがに疲れてきた。
「休憩しようか?」
「だっ、大丈夫だって。これでも体力には自信あるんだから。みくびるなよ」
「そうか。さすがだな」
 眼差しをもっと受け止めたくて、強がりを口にするオレに、またしても柔らかな微笑みが投げかけられる。
 校内で、寮の部屋で、アトリエで。
 共に行動し、一緒に過ごす時間が多くなった宇都木とオレの距離はたちまちのうちに縮まり、ヤツはオレをラムネと呼び、オレも辰哉と呼ぶようになっていた。
 いつも暗い表情をしていた辰哉はみるみるうちに変化した。
 ゲラゲラ笑うとか、つまんないギャグを飛ばすとか、そういうたぐいの大変身をしたわけじゃないけれど、性格はかなり明るくなったと感じるし、喜怒哀楽のうち、喜や楽は面に表すようになった。
 この変化の要因は何だ、もしやオレという親友を得た喜びからなんだろーか。本当にそれだけで、こんなにも変われるものなのか、ちょっと信じられない。
 そうだ、前に話していた片想いの相手とはどうなったんだろう。想いが通じるような出来事があったとしたら、恋が成就した嬉しさからの、当人の変化ってのも理由がつくけれど……
 行動を共にする時間が増えたお蔭で、ヤツの生活リズムってのはだいたい把握できているが、それらしい女に接近している様子は見られない。
 同じ寮にいながら、ほとんど接触のない諸センパイ方の彼女をオレが知っているぐらい、そのテの情報は入ってくるのに、辰哉に関しては皆無だ。
 もしや片想いの相手って、大学とは関係ないのかな。それってなおさら無理だ、ヤツは買い物以外ほとんど外に出ないし、ケータイでメッセージをやり取りするどころか、誰にもかけている様子はない。
 あ、まさか、オレが夜バイトに行っている間に……? 
 そいつも考えられないな。とにかく女の気配が感じられない辰哉に、片想いが実る可能性はまずないと断言できる。
 じゃあ、やっぱり親友? そんなふうに勝手に結論づけると、何ともくすぐったい気持ちになった。
 恋の成就よりもオレの存在であって欲しい。身勝手でワガママだとはわかっているけど、オレはそうあることを願っていた。
 さて、辰哉と一緒にいて驚いたのは一般人の常識が通じない部分がある、いわば浮世離れしているということだった。
 寮とはいえ一人暮らしをしているわけだし、自分の所帯は自分で切り盛りしていかなきゃならないんだけど、連れ立って買い物に行く途中で、立ち寄ったクリーニング店に洗濯物の大半を出したのにはたまげた。
「お、おい、自分で洗濯しないのかよ?」
 するとヤツは弱ったような顔で、洗濯機の使い方がわからないとのたまった。
 金持ちの超おぼっちゃまにありがちな育て方をされた彼は生活していく知恵というものをほとんど授けられないまま、寮にブチ込まれたというわけだ。その上、とっても親切な先輩方はこいつに何の助け船も出してくれなかったらしい。
 全部クリーニングでお任せ、なんて、生活費をたっぷり貰っているからこそできるんだけど、そんなことでジャカジャカ使っていたら、金なんていくらあっても、すぐに足りなくなってしまうだろーが。
「しょーがねーなー、今度使い方教えてやるよ」
 呆れ返ったオレは洗濯機と乾燥機の使用方法の伝授を約束した、といっても、どっちも全自動なんだけど。
「洗剤はこいつを使う。ほら、入れすぎないように、付属のスプーンに目盛がついてるだろ。あとはこの柔軟剤を入れて、洗濯する物によってコースを決めるんだ」
「ええっ、シャンプーとリンスはいつもボトルで買ってるのか? こっちの詰め替え用にしなきゃダメだろ。値段も割安だし、エコだよ、エコ。高級サロンなんかで買うなよ」
「コンビニじゃなくて、スーパーが開いてるうちはそっちで買った方が絶対安いって。五百ミリのペットボトル飲料なんか、五十円ぐらい違うぞ」
「レジ袋はもらわずに、エコバッグを持って行けばポイントがつく。そのポイントをためて、次に買うとき使えば安くなるってことだ。地球にも財布にも優しいってんだな」
「夕方に行けば弁当は何割引かになってるぜ。冷蔵庫に入れておけばどうってことない。ただし売れ残っていれば、だけどな」
「ほら、チラシをチェックして、金曜日はパンが全品二割引だから……」
 あーあ。オレってば、まるっきりエコ生活の節約主婦じゃねーか。
 貧乏学生を長くやってると、このテの知識とか知恵はバッチリついてくる。もっとも、主婦はそんなにコンビニ利用したり、弁当買ったりしないと思うけどさ。
 んでもって、その『カリスマ主婦』のお言葉をいちいちごもっともと拝聴している辰哉はオレの言うとおりにしたら、弁当を安くゲットできたと喜んでいた。大好物のみたらしだんごを半額で買った時なんかは涙を流さんばかりに感激していた。変なヤツ。
「ったく。もっと経済観念ってものを身につけろよな」
「そうだな。おまえの言うとおりだ」
 そんなに素直に認められると拍子抜けしてしまう。オレはつい譲歩して、
「いくら金持ちだからって、無駄が多いのは問題だぜ。まあ、オレも無駄使いってのをやってみたいけどな。羨ましいよ」
 すると辰哉は「俺はおまえが羨ましいと思っていた」などとかました。
「はあ、なんで?」
「入学式でおまえを見かけて思ったんだ。あれだけ天衣無縫に振舞えるのって、いいなって。俺には真似できないって」
 入学式のときからずっとオレのことを見ていたという辰哉、キャンパスで、学食で、同じ講義を受けている教室で、ヤツがオレを見つめ続けていたなんて、まったく気づかなかった。
照れ臭くなったオレは「『真似できない』って、それ、オレをバカにしてるだろ」などと突っかかった。
「してないよ。だから俺にとっておまえは憧れだった」
「ウッソだーっ。バカにしてる、絶対にしてる!」
「していないって」
 くだらない問答をしながらも、オレは辰哉と一緒に過ごす時間に喜びを感じていた。
同じ部屋になって、友達になってよかった。いけ好かないとか、関わりたくないなどと思っていたことが嘘のようだ。
 その気持ちは辰哉も同様だと、ヤツが口に出すことはなかったけど、オレはそう信じていた。
 これぞ親友、真の友。それ以外の何者でもない。オレは心の底に潜んでいる、友情ではない別の感情から目を背け続けていた。そして辰哉も──

    ◆    ◆    ◆

 辰哉の課題の作品は下書きを終え、色を乗せる段階に入っていた。
 いつものアトリエでポーズをとりながら、
「そーいや、さっき長峰に会って聞いたんだけどさぁ」
 相手が四年の先輩で寮長だろーが何だろーが、呼び捨てにしているオレを見て、辰哉が苦笑した。
「何を聞いたんだ?」
「二人部屋の規則っての、今は部屋も余ってるし、申請さえすれば一人部屋でオッケーになるって。二階がどうなってるかなんて全然気にしていなかったけど、オレら以外は全員一人部屋なんだってさ」
「えっ、そうなのか?」
「怪しいな、その反応。本当に知らなかったのかよ?」
 とぼけているのか天然なのかわからない辰哉の反応に、今度はオレが苦笑する番だ。
「じゃあ、一人部屋にしてくれって申請するつもりなのか?」
 今度は不安げに問いかける辰哉に、オレは「いいや」と答えた。
「おまえと一緒の方が何かと面白いしな。それにおまえってば、生活能力ってもんが欠如しているから、オレがついていてやんねーと。見捨てたりしないから安心しろよ」
 オレの言葉を聞いて、嬉しそうな表情をした辰哉はしばらく筆を走らせていたが「白が足りなくなった」と情けない声で訴えた。
「えっ、どうすんだよ?」
「予備を買ってあるから大丈夫だ。ちょっと部屋まで取りに行ってくる」
 開始早々休憩とはな。椅子から降りて一息ついたとたん、何とも不愉快な感覚に襲われたオレはよろけそうになった。
 胃の辺りなのかみぞおちなのか、とにかく痛い。激痛だ。
 以前にも何度か覚えがあって、こりゃあ酒のせいかと、ここのところアルコールは控えていたけど、良くなるどころか、ひどくなった感じがする。
 あっ、何かがこみ上げてきた。こんなところでゲロッたりしたらヤバイと慌てて口を押さえたが、次に掌を見て愕然とした。
 この赤黒いものって……血? 
 オレってば、血を吐いた……のか? 
 マジかよ、シャレになんねー。
 吐血といえば胃腸の疾患が相場、真っ先に思い浮かんだのはもちろん、胃ガンで死んだオヤジのこと。
 ガンになりやすい血筋・家系があるというからには、いくら二十歳の若さでもオレが今すぐガンに罹る可能性はまったくない、とは言い切れない。
 しかも若年性のガンは細胞が若い分、進行が早いと聞いている。もしもそうだったとしたら……
 それこそ全身の血の気がサーッと引き、頭の中で鐘がガラガラ鳴っているようで、目眩がしてきた。
 絶体絶命だっ! 
 パニック状態に陥りかけていたオレだが、じきに辰哉が戻ってくると気づき、誰かがそこに置きっぱなしにしていたティッシュケースから数枚を引き出して掌の赤いシミをゴシゴシと拭いた。
 辰哉だけには知られたくない、ヤツに心配をかけたくないという気持ちがオレを気丈にした。
 もしもオレがガンだと知ったら、やっとできた親友の身に降りかかった不幸に、ヤツは心を痛めるだろう。
 もしもオレを失うことになったら、またしても孤独に身を置く羽目に、ヤツは不運を呪うだろう。
──そんな思いをさせたくない。
「なーんてな。やれやれ、いきなり悲劇のヒロインモードになっちまってる。大袈裟だっつーの」
 そう、血を吐いたからといってガンとは限らないし、もっと他の、軽い症状の病気かもしれないじゃないか。
 それに、たとえガンであっても早期発見なら生存率は高い。とりあえず病院に行ってみて、それからだ。
「何だか顔色がすぐれないけど、どうかしたのか?」
 戻ってきた辰哉はオレを見て、心配そうな表情をした。こりゃあマズイ、何とか言い訳しなきゃ。
「あ、ああ。ちょっと疲れたかなって。昨夜暑かっただろ、なのに冬の布団掛けて寝入っちゃったから、途中で寝苦しくなって、それからは寝られなくて」
「バイトにも行かなきゃならないんだし、無理するなって言っただろう。それじゃあ今日の作業はこれで終わりにしよう」
「すまねーな」
 いつもひねくれた返事をするオレがやけに神妙なのは変だと思ったのか、辰哉は首を傾げ、こちらを覗き込むようにした。
「どこか身体の具合でも悪いんじゃないのか?」
「だからマジで寝不足なんだって。しつこくするとモデルやってやらねーぞ」
 本当のことを見透かされそうで怖い、オレはプイと顔を背けた。
「ひと寝入りすれば復活するからさ。じゃあ、お先に」
 不審の視線を背中に感じ、焦りで足がもつれそうになる。
 二人の友情の絆がほころびる、そんな悲しい予感がして、胸に暗澹たる思いが広がっていた。
                                ……④に続く